楠公

5月25日は「楠公祭」

5月 25, 2010 by 赤池まさあき · 1 Comment 

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いつでも皇室のため、祖国のために馳せ参じる気構えの、皇居外苑に建つ馬上の楠木正成公の銅像

 赤池誠章です。「国づくり、地域づくりは、人づくりから」をモットーに、全身全霊で駆け続けます!

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●鳩山首相の「辺野古」移転は現行案ではない!?

 先週21日(金)に事務所を中小河原から甲府銀座に移転したとはいえ、相変わらず事務所の中の片づけが終わらず、足の踏み場がない状態です。5月末日には、昨年から始まった1円領収書の政治活動収支報告書の提出日となり、担当スタッフは引越と同時作業に大慌てです。

 鳩山首相は23日(日)に沖縄を再訪して、日米合意事項を仲井間知事はじめ沖縄の方々に伝えたと言います。結局、私どもが以前から指摘していた通り、現行案通り辺野古への移転となりました。あらゆる案を検討した結果ですから、誰がやってもこうなることは分かっていたことです。それでも、独自性を出そうとする鳩山首相は、訓練の一部移転に、執念を見せていますが、大勢に影響はありません。問題は、ことここに至っても、今回の日米合意案を現行案ではないと強弁している点です。職を賭して、県外移転に取り組むと国会で言明したわけですから、素直に不明で混乱させたことを詫び、首相を辞職することが、鳩山首相の唯一の責任の取り方でしょう。あわせて、口蹄疫問題で、外遊して、対策が後手に回る赤松農水大臣も辞職すべきです。

 

●鳩山首相と対極のリーダー楠公

 鳩山首相を見ていて、日本のリーダーはいつからこうなってしまったのかと溜息が出ます。日本の歴史上には、鳩山首相と対極のリーダーがいました。今から674年前の5月25日、神戸市湊川で戦死した楠木正成(大楠公だいなんこう)です。

 楠木正成は、智仁勇を兼ね、後醍醐天皇を支えた誠忠のリーダーです。鎌倉時代の末、北条執権政治は混迷し、世は乱れに乱れます。それを憂い、後醍醐天皇は討幕の挙に出ます。しかし、幕府の威光を恐れ、それに従う武将がいない中、楠木正成が後醍醐天皇の命を受け、鎌倉幕府と戦います。それをきっかけに、足利高氏、新田義貞はじめ多くの武将が参戦し、鎌倉幕府が滅亡します。後醍醐天皇を中心とする建武の新政、建武の中興が始まります。しかし、理想の政治を掲げた新政も、武士層の離反を招き、足利尊氏が幕府再興を狙って反乱を起します。楠木正成は足利軍と戦いますが、多勢に無勢、1336年建武3年5月25日に湊川の戦いで亡くなります。この時、「七生報国」(七たび生まれ変わって、逆賊を討って、国に報いる)の言葉が生まれたのです。この地には、現在湊川神社が建っています。

 湊川の戦いの直前、正成は櫻井の駅(大阪府三島郡島本町桜井一丁目)で、嫡子正行(まさつら11歳、小楠公しょうなんこう)を楠木氏の本拠地である河内に帰します(櫻井の別れ)。この時の様子は、明治時代唱歌「青葉茂れる桜井の」になっています。正行は、弟正時とともに、父の遺言を守り、南朝のために室町幕府と戦い続けます。大阪四条畷の戦いで敗れ、兄弟そろって自刃します。現在、その地は四条畷神社があり、墓所もあります。

 楠公については、日本の心を伝える会(日心会)が、分かりやすく次のように説明しています。

 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-806.html

  

●豊臣秀吉から水戸光圀へ

 湊川神社のホームページには、楠木正成没後の経緯が次のように書かれています。

  (現在の湊川神社にある大楠公)墓所は長いあいだ荒廃していましたが、豊臣秀吉が検地の際、お墓の東西四間(約8メートル)、南北六間(約12メートル)を免租地としました。その後に尼崎藩主青山幸利公によって末と松と梅が植えられ、また五輪塔が建てられました。

 元禄5年(1692年)、水戸光圀公(義公)は、家臣佐々介三郎宗淳(助さん)をこの地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を岡村元春に書かせて、これに刻ませました。この墓碑の建立によって大楠公のご盛徳は大いに宣揚されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。すなわち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのです。

 http://www.minatogawajinja.or.jp/guidance07.html

 

●幕末の志士たちへ

 平泉澄先生創設の日本学協会刊「日本」平成22年6月号には、皇學館大學非常勤講師の三輪尚信先生が「楠公祭に祈る」と題して寄稿しています。それによると、楠公の戦死した日である5月25日を祝おうと最初に提案したのは、幕末の水戸学の碩学、尊王攘夷論の提唱者である会沢正志斎だと言います。天保5(1834)年のことです。楠公は第一等の忠臣であり、永久に義士を励ます存在であり、戦死した日には、同志が集い、切磋琢磨し、それぞれの立場で、国家に貢献する道を考え、議論しようと提案しています。実際に、楠公をお祀りし始めたのは、真木保臣(真木和泉守、九州久留米藩の神官で、水戸学を学び、松下村塾の俊英・久坂玄瑞らとともに禁門の変で敗れ、天王山で自害。享年52歳。今楠公と呼ばれる)であり、弘化4(1847)年からだと言います。真木和泉守は楠公精神の継承と復活を祈念し、実際に実行したのでした。

 尊王愛国の楠公精神は、明治維新に引き継がれました。楠公を顕彰しようと明治天皇が命じ、明治5(1872)年湊川神社が創建されたのです。皇居外苑には、明治33年住友家が寄贈した大楠公の馬にまたがる武者姿の銅像があります。

 http://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_06.html

 

●日本人の常識

 戦前には学校教育でも、大楠公や小楠公のことは教えられ、日本人の常識となっていました。

 先の大戦では、楠公精神は神風特攻隊や人間魚雷「回天」の隊員ら、祖国を守る英霊に引き継がれました。楠公精神の象徴的な言葉である「七生報国」や、楠木家の紋「菊水」、旗印「非理法権天」が盛んに使われました。

 戦後、GHQの占領政策の中で、楠公やその精神は軍国主義だということで、一切教えられなくなってしまいました。

 改めて、国難の今、楠公の命日である5月25日に楠公に学ぶことは、軍国主義でも何でもなく、日本の国柄、伝統を学び、祖国を守る基本的な心構えではないかと思います。

 

 ●忠と義

 大正期の尋常小学校の修身の教科書では、どのように教えられていたのか、以下引用します。

 

 文部省編 『大正期 尋常小學修身書 巻五』(小学5年生) 五から九頁

 第三課 忠義

 後醍醐天皇(第96代天皇)の御代に、鎌倉の北条高時(鎌倉幕府第14代執権)が天皇の仰せに従ひませんので、天皇は高時を討たうとなさいました。高時は早くもそれを知って、大軍を京都にのぼらせました。そこで天皇は山城の笠置山に行幸になりましたが、地方の豪族も賊軍の勢に恐れてお味方申し上げる者がありませんので、大そう御心配になりました。

 楠木正成は河内の金剛山の麓に住んでゐましたが、天皇の御召をうけ、此の上もない武士の名誉と勇んで笠置の行在所へまゐりました。天皇は大そう御喜びになり、「高時を討って天下を太平にせよ。」と仰せつけられました。正成は詔をありがたくおうけして、「賊軍が強くても、謀を用ひて討てば、勝てないことはございません。しかし勝負は戦の習でございますから、たまに負けるやうなことがありましても、御心配には及びません、正成さへ生きて居りましたら、御運はきっと開けまものと思し召せ。」と、たのもしく申し上げて御前をさがりました。

 正成は河内へ帰って赤坂城をきづき、僅か五百ばかりの兵で、まっ先に勤王の旗をあげました。さうして天皇をお迎へ申し上げようとしてゐるうちに、賊軍は笠置山を攻略し、更に赤坂城におしよせて来ました。正成は度度それを打破ったが、兵糧がつきたので、城を焼いて、身をかくしました。間もなく、金剛山に千早城をかまへて、千人足らずの兵で立てこもり、おしよせて来た族の大軍をさんざんに苦しめました。その間に正成の旗あげを聞いて、お味方申し上げる者が次第に多くなって、高時はとうとう打滅ぼされました。

 天皇が隠岐から京都へおかへりになる時、正成は兵を引きつれて兵庫までお出迎へ申し上げました。天皇は正成を御側近お召になって、その忠義をおほめになりました。正成は「強敵を破ることが出来ましたのは、全く陛下の御德によることと存じます。」とお答へ申しました。それから天皇は前駆をさせて、めでたく京都へおかへりになりました。

 

●忠と孝

  小学6年生にも、楠公は出てきます。

  文部省編 『大正期 尋常小學修身書 巻六』 十五から十九頁

 第六課 忠孝

 北條氏が滅びて、後醍醐天皇は京都におかへりになりましたが、間もなく足利尊氏が反きました。楠木正成は諸将と共に尊氏を討って九州に追払いましたが、その後、尊氏が九州から大軍を引きつれて京都に攻上がって来るとの知らせがあったので、勅を奉じて、尊氏を防ぐために兵庫に赴きました。正成はこれを最後の戦と覚悟して、途中桜井の駅でその子正行(まさつら)に向ひ、「父が討死した後は、お前は父の志をついで、きっと君に忠義を蓋し奉れ。それが第一の孝行である。」とねんごろに言聞かせて、河内へ返しました。この時正行は十一歳でした。正成はそれから兵庫に行って遂に湊川で討死しました。

 家に帰ってゐた正行は、父が討死したと聞いて、悲しさの余り、そっと一間に入って自殺しようとしました。我が子の様子に気をつけてゐた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしっかとおさへて、「父上がお前をお返しになったのは、父上に代って朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を蓋すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守って、一日も忠義の心を失わず、遊戯にも賊を討つまねをしてゐました。

 正行は大きくなって、後村上天皇にお仕え申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかはして正行を攻めさせました。正行は勝負を一戦で決しようと思ひ、弟正時をはじめ一族をひきつれて、吉野の皇居に赴き、天皇に拝謁して最後のお暇乞を申し上げました。天皇は正行を近く召され、親子二代の忠義をおほめになり、汝を深く思ふぞとの御言葉さへ賜りました。正行はそれから四条畷に向ひ、僅かの兵で賊の大軍を引受けて花々しく戦ひましたが、此の日朝からのはげしい戦ひに、味方は大方討死し、正行兄弟も矢きずを多く受けたので、とうとう兄弟さしちがへて死にました。

 格言 忠臣ハ孝子ノ門ニ出ヅ。

 

 もう一度、楠公を日本人の常識にしたいものです。

 

 ●6月16日山梨で、教育再生集会第二弾の開催決定

 私の地元山梨では、2月に引き続き、6月に「教育再生集会」第二弾を開催することになりました。地元の方の結集はもちろんですが、新宿からバスを出しますので、全国の有志の方々の参加をお願いいたします。

 詳細はこちらへhttp://www.akaike-office.net/report/2010/H220616_etm-yamanashi.pdf

 

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● 活動報告

 「2.17創生日本!教育再生国民集会in山梨」開催 盛況御礼!

  • 日時:平成22年2月17日(水)18時開場、18時30分から21時まで
  • 会場:甲府市総合市民会館芸術ホールで
  • 街頭:午後2時30分から甲府駅前で街頭演説、その後中心街を街頭行進

 平沼赳夫先生からもビデオメッセージを頂き、安倍晋三元内閣総理大臣はじめ、平沼赳夫(衆議院議員ビデオ)、井尻千男(拓殖大学日本文化研究所顧問)、八木秀次(日本教育再生機構理事長)、衛藤晟一(参議院議員)、宮川典子(自民党参議院議員候補予定者)、義家弘介(参議院議員)、中山成彬(元文部科学大臣)、伊藤玲子(建て直そう日本女性塾幹事長)、土屋たかゆき(東京都議)、小林正(教育評論家)、西村幸祐(ジャーナリスト)、山村明義(ジャーナリスト)、松浦芳子(草莽全国地方議員の会会長)、富岡幸一郎(文芸評論家)、水島 総(頑張れ日本!全国行動委員会)が来県して、熱く語っております。

 

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 以上、お読み下さり、ありがとうございました。

 今後も、「国づくり、地域づくりは、人づくりから」をモットーに、日本国家国民を守るために、落選したとはいえ、全身全霊で駆け続ける覚悟の赤池誠章です!ホームページもご覧下さい。http://www.akaike.com

 

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